ビーナチュラル
バーノンが言ったビーナチュラルは、おそらく最もよく知られたマジックのスローガンでしょう。しかし、マジックは超自然現象、つまり自然に反することを見せるものです。であれば、なぜ自然でなければならないのでしょうか。それはフィクションだからです。不自然なプロセスはフィクションを壊します。不自然なやり方でコインが消えたら、魔法が原因だと感じられず、不自然な行為が原因ということになってしまいます。
そして、自然であれと叫ばれる背景には、不自然なやり方が目立つという状況があります。自然とは、不自然ではないことです。ビーナチュラルは不自然なことをすな! と言い換えられます。
不自然なこととはなんでしょうか。自然はロスを嫌い、人間もロスは好みません。余計な物、余計な経路、余計な力、余計な時間、余計な苦労などは不自然です。大阪から東京へ行くのに北海道を経由するのは不自然ですし、カップラーメンを作るのに30分かかるのは不自然です。そういうことがマジックではよくあります。当然「何かあるはずだ」となります。匂うわけです。クサいことをして、現象が起こっても、不思議にはなりません。「何をやったかはわからないけど何かやったのはわかる」は一般的にはバレていると言います。
もちろん、裏で何かをやらなければマジックの現象は起こりません。なのでそこを自然に行わなければならないのですが、ここで言う自然とは表から見たときのことです。裏の行為を無駄なくやるというわけではなく、むしろ裏側でどれだけ無駄が生じても、表向き無駄がないように見えなければなりません。そこにマジックにおけるビーナチュラルの難しさがあります。マジックには二重性があり、表の世界と裏の世界が乖離しています。乖離を作るのがマジックです。表向き自然になるように裏の仕事を達成するのは技術的に難しいことであり、また裏情報を干渉させずに乖離された表側を客観的に見極めるのは心理的にも容易ではありません。
さて、ダイ・バーノンのビーナチュラルという言葉には、ビーユアセルフという説明が加えられています。私が思うに、これはかなり要注意です。
あるマジシャンの指導をしているときのこと、彼の動きがどうも不自然で、どうしたものかと思っていました。休憩中、彼に「ちょっとそれを取って」とテーブルに置いている物を取ってもらったのですが、その彼の所作がなんとも不自然ではありませんか。私は思わず「わかった。あなた自身が不自然だわ」と言ってしまいました。ビーユアセルフが自然とは限りません。ナチュラルに不自然な動きの人もいます。
また、スライディーニについて、彼は演技スタイルは彼の普段のスタイルとはまるで違ったとジーン・マツウラさんから聞いたことがあります。当たり前と言えば当たり前ですが、演者としてのあなたの所作が、素のあなたの所作と同じである必要はありません。もちろん、違った場合、普段のあなたを知る人からはその違いが不自然に映るかもしれませんが、マジシャンが役者であるのなら、知人から不自然に見えることもまた自然です。そして、スライディーニは演技中、素の自分より不自然に動いていましたが、それは彼の演者としてのペルソナには自然なものでした。
何が自然なのかは文脈やフレームで変わります。物が浮くのは、地上では不自然ですが、スペースシャトルの中では自然です。
原則としては無駄の少ない動きのほうが自然になりますが、基本的に無駄の多い動きの人が、技法のときだけ無駄なく動くと不自然です。際立ちます。野球中継を消すと居眠りしていた親父が起きる現象がありますが、音が止むのは目立つのです。トーンを統一しなければなりません。
『KATA』でお馴染みのダフェダスBさんが言っていました。「すべての動きを不自然に行ったとき、不自然な部分はなくなる」。もちろん、全体が不自然なのは良いのかという話になりますが。
もっとも、人間はある程度不自然です。いくらかは無駄な動きをするものであり、全く無駄がないのも逆に不自然です。体脂肪のように、自然な量があります。少なすぎると痩せすぎで、多すぎると太りすぎになります。ただ、ほとんどの問題は肥満なので、ダイエットが重要です。あえて太いスタイルというのもあり得ますが、それは自覚的で選択的なものでなければなりません。
なんであれ自覚的でなければなりません。自分の不自然さを知り、それを調整するか、あるいはムーブをそこにアジャストする必要があります。
ポン太 the スミス