確率と不思議さ


マジックでは現象のあり得なさとして起こる確率の低さを言うことがあります。「1/nの奇跡」、nが大きいほど不思議だというわけです。では体感の不思議さはnに比例するのでしょうか。

コイントスの予言を考えましょう。予言を述べ、コインを投げさせます。それが1回的中しても不思議ではありません。1/2の偶然です。繰り返すことで不思議になっていきます。しかし、不思議さが倍々で増え続けて無限大に発散するということはないでしょう。5,6回ぐらいすれば、それ以上繰り返しても不思議さはあまり上がらないように思います。

私の感覚では、事象が起こる確率をpとすると、不思議度はだいたい(0.5-p)×200ぐらいです。コイントスの予言の場合、この値は反復に応じて0, 50, 75, 88, 94, 97, 98, 99, 100となります。偶然ではないと感じられれば不思議が成立するので、必然を確信できる以上の試行が過剰に感じられるわけです。

必然性はコンテクストによっても示唆されます。例えば、マジックショーの演目で、100万円が入った箱と空箱を用意して好きな方を選ばせてプレゼントする場合(あるいはもっと極端に、生死がかかっているような場合)、演者の必勝性が暗黙に想定されます。そのとき、デモンストレーションは1回で十分で、50%を100%制御する不思議になります。

ここまでの議論は、プロセスのクリーンさやフェアさを考慮していません。しかし、実際のところ、マジックで問題になるのはむしろそっちです。マジックにおける不可能性というのは、確率的なありえなさ(インプロバビリティ)ではなく、トリック的な実現性のなさです。ジョン・ハーマンの「100万分の1の偶然」は極めてインプロバブルですが実現不能には見えません。インプロバビリティ≠インポシビリティなのです。マジックはインポッシブルでなければなりません。

また、体感的な確率と数学的な確率は違うということにも注意が必要です。観客は確率をロジカルに計算をしながらマジックを観賞するわけではなく、もっと感覚的に反応します。ACAANとCAANはどちらも52分の1の事象ですが、多くの人にとってACAANの方が起こりにくいように感じられます(そして、ACAANのほうが(プロセスにもよりますが)コントロール不能に見えます)。

結局、確率自体はマジックにとってさほど重要ではありません。大傑作と言われるBウェイブは4分の1を示しているだけです。しかし、示す過程で、必然性や不可能性を強調し、インパクトを高めています。イロジカルな反応を誘発しているところもあるように思います。

マジックの不思議はさまざまな要素が複雑に絡み合うものです。確率的な現象の不思議さは、実は確率以外でおおむね決まるのです。

 

ポン太 the スミス

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