トゥーパーフェクトセオリー


傷がないから完璧であるはずなのに、マジックでは完璧が傷になりえると言われます。トゥーパーフェクトセオリー。マジックは完璧すぎるとバレやすくなるという説です。

この説には議論がかなりあります。バレやすくなるとしたらそれは完璧すぎるのではなくデザインが良くない、というようなことをタマリッツが言っていたとハビー・ベニテツから聞きました。私も同じ意見です。

不可能性を高めたはずが不思議でなくなることは確かにあります。

ひとつはオルモストパーフェクトです。そもそも完璧という概念に程度はありません。百点満点が完璧であり、そこにレンジはないのです。でも、本当の魔法がない以上、マジックに完璧はありません。完璧は目指すことはできるが到達はできないとダイ・バーノンも言っています。完璧なマジックは存在せず、あるとすれば完璧に近いマジックです。そこには程度があります。完璧にどれだけ近いかですが、完璧に近づいたときに不思議さが落ちる場合があります。完全の一歩手前で不完全性が際立つのです。ミステリーボックスのプロットで、箱の透明化が少し前に流行りました。最終的に6面が透明な箱で達成されましたが、その前の段階で5面が透明なバージョンがありました。1面だけが不透明なのです。怪しさはそこに集中し、実際にそこに仕掛けがありました。これはかなり露骨な例ですが、もっと微妙な形で同じようなことになっているのをよく見かけます。不可能性を部分的に高めるとき、それは可能性の限定になりかねないのです。

もうひとつはトゥーインポッシブルです。完璧には程度がありませんが、不可能にはあります。コインがボトルに入るより、象がボトルに入る方が不可能です。過ぎたるは及ばざるが如しで、不可能性も高ければ高いほど良いとは限りません。あまりに不可能だとマイナスになりえます。観賞における暗黙の枠組みが外れてしまうのです。我々が物を見るとき、知らず知らず前提を設定しています。メンタリズムが不思議なのはサクラではない前提があるからです。カードが当たる程度であればそのフレームは維持されますが、例えば観客の持っている紙幣のシリアルナンバーを言い当てればそのフレームは揺らぎます。フレームが支えられる不可能には限界があり、それを超えたときにリフレームが起こるのです。テレビで東京タワーが消えたら、視聴者の脳には編集の可能性がよぎるかもしれません。目の前に死んだはずの祖母が出てきたら、現実というフレームを疑うでしょう。

どちらの場合も、観客をある答えにたどり着かせる追い込み方と言うことが可能です。もちろんその答えが間違っている場合もあります。でも、間違いが否定できないのなら、観客の体験上、合っているのと差がありません。正解であれ、間違いであれ、観客に答えを出させてはマズいのです。解なし、あるいは思考停止に導くのが理想のデザインになります。

トゥーパーフェクトセオリーは、完璧を理由にしている点でおかしいのですが、完璧に見える方向に落とし穴がありうると知ることは有益です。どの場合OKでどの場合NGかはマジシャンによって見解にばらつきがありますが、良いマジシャンに共通しているのは、この問題に敏感なところです。もっとも、良いマジシャンはだいたいのことに敏感なのですが。ともかく、不可能性はよく考えて最適化する必要があるのは確かです。

 

ポン太 the スミス

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