世界マジック紀行INスペイン

先日、NHK BS4Kで放送された『世界マジック紀行INスペイン』は、いままででもっとも意義深く、もっとも美しいマジック番組でした。マジック番組というより旅番組というほうが正確でしょうか。情熱の国スペインの、マジック大国としての魅力を紹介する内容です。

案内人は桂川新平。完全に新平さんだから成立する企画でした。「多くの人に助けられてラッキーだった」と彼は振り返っていましたが、それこそが彼の人徳のなせる業にほかなりません。新平さんの人間性とそこからつながる縁の必然や偶然の重なりが格別な景色をつくります。

演出ではないマジック文化のリアルなすばらしさと可能性が記録されているところが何よりも貴重です。番組を通じて、マジックの理想的なあり方が映し出されていたように思います。「芸術性」と「社会性」をキーワードに述べてみます。
 
芸術性

マジックは芸術なのでしょうか? とりあえず、そう見なされてはいません。「彼のマジックは芸術である」という表現が可能なのは、マジックが芸術ではないという前提の共有があるからです。「彼の絵画は芸術です」とは言いません。絵画が芸術だからです。

マジックはエンタメと見なされており、事実、エンタメです。でもエンタメと芸術は対立するものではありません。人は芸術を楽しみます。エンタメにも芸術性があり、それはエンタメ性にもリンクします。

番組には「芸術」という言葉が数多く登場しました。アートを掲げる新平さんがフィーチャーされているからというのも当然ありますが、基本的にスペインのマジシャンはマジックを芸術としても認識しているというのがあります。そして、そのアート思考はスペインマジックの質を支えるものにもなっています。構造や表現における正しさ、良さ、美しさの追求があり、基準があり、自由な発想があり、それが発展を推し進めます。

芸術性は観客の見方を規定するものにもなります。マジックに芸術を感じるとき、観賞が鑑賞になります。繊細な表現への感度が高まり、観点が多義的で重層的になります。そこにマジックの可能性が広がるのです。芸術性にはいろんな方向性や形式がありえます。新平さんのマジックはその見事な一例です。

マジックにますますテイストが求められる現代、マジックはもっと芸術になっていいと思います。
 
社会性

マジックは本来社会的なものです。マジックは他者がいて成立し、人類の共通性の上に成立します。言語や世代を超えて共有されるマジカルな体験には人と人とを結びつける力があり、そのポテンシャルは計り知れません。

スペインでのマジックの社会受容を見ると、マジックにはマジシャンが思っている以上に社会的可能性があることがわかります。マジックは閉じたコミュニティので回されるものではなく、もっと一般の社会に開かれた、もっと社会に根差した、もっと社会を巻き込んだ文化になりうるのです。

もちろん、社会に受け入れられるためには、それに値する上質な活動が継続的に示されなければなりません。社会受容があると活動しやすくなる循環もあります。スペインマジックは、芸術的取り組みはもとより、学術的な取り組みや教育的な取り組みもにも熱心で、それが社会的価値を生んでいます。

 
cultureはcultivateと同語源です。文化は本来的に耕すものなのです。刈り取る活動だけでは文化は痩せ細っていきます。土壌をつくって種をまくことが文化にとってきわめて重要であることを今回あらためて痛感しました。

マジック文化の最高のモデルがスペインにあり、この番組はその姿とマインドに迫るものでした。非常に示唆に富む、そして夢のある内容だったと思います。

この放送でマジックの美しいあり方が広く共有されることを願います。

 
 

ポン太 the スミス

 

マジックコンテスト

マジックの世界には大小さまざまなコンテストがあります。私もいろんなコンテストにいろんな形でかかわってきました。

近年、マジック界でのコンテストの意義がますます高まってきているように感じます。そこで、あらためて「マジックコンテスとはどういうものなのか」をあれこれ書きました。

 

マジックコンテストの意義

コンテストの意義とはなんでしょうか。それはコンテストによっても異なりますが、だいたいは要約すれば技術の向上および文化の発展といったところになるでしょう。お笑いはM-1をはじめとするコンテストが盛り上がることで、芸人の技術が切磋琢磨され、それがエンタメの強度となり、お笑い文化の繁栄につながっています。繁栄しすぎているきらいはありますが。

ともあれ、娯楽が多様化し、娯楽性に対する基準や要求が高まっていくなかで、止まったままのものは落ちていくしかありません。「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」のです(『鏡の国のアリス』)。

「真剣にやれよ、仕事じゃねえんだぞ」(タモリ)ではありませんが、ビジネスではないから全力投入できるということがあります。ビジネスでは、得られるメリットから投下するコスト(時間や努力も含まれます)を決めるので、マジックのような市場規模では熱量不足で大したことができません。ニッチなジャンルは商業主義ではなかなか発展しにくいわけです。

良いマジシャンは非商業主義的なエンジンも積んでいます。そもそも、商業と割り切るならなぜマジックなのか。もっと効率のいい商売をしたほうがいいでしょう。結局、我々はマジックが好きでやっている(少なくとも好きではじめた)のであり、マジックに精神的価値を感じており、その価値を追求する気持ちがある(あった)はずです。

商業性を否定するわけではありません。それはプロ には必要条件とも言えるでしょう。でもそれは十分条件ではありません。商業性やマーケットインに傾きすぎると、逆説的ですが商業は先細りになります。「市場や顧客のニーズを意識しすぎて日本企業は凋落した」とスティーブ・ジョブズは言いました。マジックはこのところ、資源と需要を消費するばかりのサイクルで弱体傾向にないでしょうか。

マジックの発展には、商業主義以外の価値基準も重要になります。それを育むもののひとつがコンテストです。コンテストで、マジックやマジシャンの卓越性、創造性、芸術性を認め、励ますことで、その価値観のカルチャーが広がり成長します。文化的価値が賞を介して商業的価値になることもあるでしょう。それは基本的には文化と商業の双方に強度をもたらすものになります。そのような活性化を通じて、マジックに健全な発展を促すのが、コンテストの望ましいあり方であり、その存在意義だと私は思います。

 

参加意義

では、コンテストの出場する意義はなんでしょうか。なぜコンテストに出るのか。これもまたコンテスタントによるわけですが、自分の実力を試したい、示したいというのがとりあえずの動機なるかと思います。そこでの経験と成長も意義として大きいでしょう。もう少し進んだフェイズでは、創作や研鑽のモチベーションにしたい、ステップアップにつなげたいといった視点も出てきます。

出場するメリットはたくさんあります。まず、挑戦自体が自信になるでしょう。人生の後悔ランキングのトップは挑戦しなかったことです。挑戦できるという資質は大きいのです。また、マジックコンテストへの出場は、マジックへの情熱の証明になります。情熱で開かれる扉は少なくありません。そして、幸運にも好成績なら、当然、それ自体が喜ばしいことですし、そこから広がるチャンスも増えるでしょう。

そして、そもそも、コンテストはコンテスタントがいないと成立しません。つまり、コンテスタントはマジックの文化を支える重要なプレイヤーなわけです。

したがって、コンテストは参加することに大きな意義があると言えるわけですが、しかしやはり出るからには勝ちたいというのもあるでしょう。

 

コンテストで勝つには

必勝法はありません。個別面談なら具体的な助言もできますが、一般的に言えることはあまりありません。良いアドバイスを望むなら、信頼できる人に相談するのがいいでしょう。それこそ、情熱があるなら協力してくる人は多いはずです。

当たり前のこととして、良い準備ができた人が勝利に近づきます。ここでは、その準備の準備として「良い」の基準を確認していきたいと思います。評価基準や採点方式はコンテストごとに異なりますが、だいたいのマジックコンテストでは不思議さ、技術、構成、プレゼンテーション、ショーマンシップ、エンタメ性、芸術性あたりが評価対象になります。エンタメ性のみ評価するというコンテストもあるかもしれません。ルールに応じた最適化をしてください。ここからは、マジックコンテストの最高峰であるFISMの観点を見ていきます。

 

審査の観点

専門技術 Technical Skill/Handling

人生はお金ではありませんが、人生にはお金が要ります。そのパラドックスがマジックと技術にもあります。マジックにとって技術は最終的には重要ではないかもしれませんが、技術がないと始まりません。そして、技術から自由であるためにはかなりの技術が必要です。

技術で重要なのは超絶度ではなく熟達度です。自然さ、スムーズさ、確実性、安定性、ステルス性、自在性などを見ます。技術の選択が適切かというメタ視点もあります。

超絶技巧でアピールする必要はありません。スゴ技をキメて高得点というのもいまどきないでしょう。無駄に難しいことをするのは不適切な選択とも言えます。ただし、スキルデモンストレーションがテーマのアクトなら話は変わってきます。

基本的には安定運用できる範囲の技術を使うべきです。その範囲を確保するために技術を高める必要があります。超絶技の練習も技術の幅を広げるのに役立ちます。

スライト以外にも、ミスディレクションやサイコロジカルテクニック、あるいはギミックやテクノロジーも技術に含まれます。基本的な考え方はスライトと変わりませんが、ギミックの場合には、とりわけ見せない技術、感じさせない技術が求められます。ギミックが見えたり匂ったりするとスライト以上に印象に影を落とします。

ギミックが感知される(ギミッキーである)ことと、ギミックだと推測されることは違います。カッパーフィールドのフライングは装置であろうことが推測されるわけですが、ギミッキーではありません。それに対し、ポールに沿って直線的に上昇する浮揚はギミッキーです。まるで違う印象になります。印象上、前者は魔法であり、後者は非魔法です。

ショーマンシップ/プレゼンテーション Showmanship/Presentation

ショーマンシップはいわば演者力です。マジックが弱くてもショーマンシップで魅せられたり、強いマジックがショーマンシップで台無しになったりします。乗算的な働きがあるので、その影響力を考えると、必ず高めておきたい項目です。良い演者を見てショーマンシップを学んでください。マジック以外の演者も参考になります。

ショーマンシップは磨いておくべきものですが、ショーに臨む際の意識も重要です。ショーマンシップへの集中は緊張にも効きます。そもそも緊張は、出力を高めるための生理反応です。エンジン全開、走らないと震えます。実際、意識を内に向けると手が震えます。外に向ける必要があります。ショーマンシップのギアを上げましょう。アドレナリンがパワーに変わります。

プレゼンテーションは、マジックをショーにするための有形無形の手段すべてです。ペルソナ、衣装、セリフ、道具立て、音響、照明、客あしらい等々。それらがマジックや演者に合っているのか、すべてで調和や整合性が取れているのか、そしてそれは結局おもしろいのかというのが問われます。

プレゼンテーションに関しては、それだけで本が書けます。実際にいくつもの本が出版されているので、それらを読むと良いでしょう。

エンタメ性 Entertainment value

エンターテインメントとしてのおもしろさです。どれぐらい観客を楽しませられるものなのか。

ここでは実際の客ウケも見ます。当然それはエンタメ性の指標になります。ただ、内輪ウケはあまり評価されせん。コンテストの観客は特殊であり、特有のツボがあります。ツボを突けばリアクションが得られますが、それは足の裏をこそばすようなもので、良いエンタメではありません。ウケには量だけではなく質もあるということです。下品、卑猥、低俗、悪趣味なものはウケても低評価になる恐れがあります。

ウケはアクトが置かれるコンテクストにも依存します。イベントを通じての波もありますし、直前の演目にもかなり左右されます。場外戦が影響するかもしれません。審査はコンテクストでブレるべきではありませんが、人間が見る以上、排除しきれるものではないでしょう。実際のところ、なんであれ、ウケるとかなり有利です。

芸術性/構成 Artistic Impression/Routining

マジックは芸術かという議論を好むマジシャンは多いのですが、それは、マジックをどう考えるかというよりは、芸術をどう考えるかの問題になります。マジックは、芸術になりうるとも思いますが、その前にイリュージョンが成立していなければならず、その後にエンターテインメントでなければなりません。その意味で、マジックは、少なくともマジックコンテストの文脈では、純粋芸術にはならないでしょう。

芸術にはいろんな形がありますが、根本的には真善美を追求するものだと思います。当然、マジックにも真善美の追求があり、それが極まったときにそれは芸術的なものになります。

マジックが芸術性を帯びるとき、それは普遍的で超越的な価値を持つという点ですばらしく、また、それがもたらす快感情は観賞感を大きく高めます。当然、それは高く評価されるべきものでしょう。

芸術性には構成によるものがあります。なので、構成と芸術性がひとつの観点にまとめられているわけです。とはいえ、個人的には別の観点とする方がわかりやすいと思っています。それらは重ならないところも多いからです。もっとも、後ほど見ますが、FISMの採点方式においてその辺の仕分け方はあまり重要ではありません。

芸術的な構成は、全体に全体像があり、部分に全体の精神があります。要素自体、そして要素間のつながりに必然性があります。テーマでまとまっていると言ってもいいでしょう。トートロジーになりますが、そこに芸術性があるとき、芸術的だとなります。基本的には感性に訴えかけるものです。観念的な芸術性は、見る側の芸術観にもよりますが、評価されにくいと思います。マジックの芸術的側面は、見出すものというよりは感受されるものになります。

パフォーミングの芸術性もあります。動きに全体性があり、完全性があり、秩序があり、調和があり、リズムがあり、洗練されており、道具の扱いが自然であり、軽やかであり、自由であり等々。非常にざっくり言うと、所作が美しいということです。結局、美的感覚で判断するしかありません。

独自性 Originality

独自で考えたものが独自性のあるものとは限りません。他にはない質を持つものが独自性のあるものです。他にはないものを考えるためには、周りを知らなければなりません。他に似ないようにあえて他を見ないという人もいますが、それはもともと特殊な人で、幸運に恵まれないとうまくいきません。当然ながら人は普通、特殊ではありません。人間が考えることはだいたい同じです。Think differentというアップルの広告に突き動かされた人が皆マックを買いました。

独自性は本来、目的ではなく進化の側面です。キリンの首が長いのは、高いところのエサがとれるからです。ゾウの鼻が長い理由は知りませんが、少なくとも斬新なスタイルを目指したものではないでしょう。生物の独自性は、図らずも、生態系における優位性に導かれています。

人間活動はもっと意図的なものかもしれませんが、そうであっても、むしろそうであるのならなおさら、独自性の焦点は形ではなく機能に当てられるべきでしょう。それは何を達成するものなのか。新しい何かをつかむとき、必然的に独自の形になるのです。

表面的な奇抜さを追う必要はありません。利点を伴わないエキセントリックはほとんど評価に値しません。新しいだけのパターンは無限に生成できます。ピアノの鍵盤をデタラメに叩けば新しい曲が(曲と呼んでいいのかは知りませんが)できますが、そこに何の意味があるのでしょうか。

表面的にならないようにすべきです。ただ、表面的にでも何かに似ていると、印象が弱くなるので、他と類似する形態は避けたほうがいいでしょう。それぐらいの制限は、創造を阻害するものではなく、むしろ促進するものになるはずです。

魔法感 Magic Atmosphere

魔法感はマジックの必須条件になる項目です。マジックコンテストですからマジックでなければなりません。日本においては、しばしばこの項目が「不思議さ」と置換されます。不思議を目的化した芸が奇術=カタカナのマジックなので、マジックの要件が不思議さになるのはそれこそ不思議ではありません。一方で、英語のmagicは、本来の意味が魔法なので、magicと呼ぶためには魔法を感じさせなければなりません。魔法は不思議、ゆえに不思議を見せようとなり、そこでめでたくマジックと合流します。しかし、魔法が不思議だとしても、不思議が魔法とは限りません。スマホや電子レンジも不思議ですが魔法ではありません。メタファーとしては魔法と言えるかもしれませんが、我々のmagicはメタファー以上のフィクションです。したがって、magicにはその根底に魔法味への志向性があります。それがMagic Atmosphereの本質だと思います。

マジックとmagicのニュアンスの違いは、日本のマジシャンと海外のマジシャンの態度の違いにも表れます。日本のマジシャンは、魔法のイメージから自由であり、それゆえのおもしろい発想があります。海外のマジシャンは、「魔法ならどうか」という意識が強く、それが表現の質になっています。

そういうわけで、国際コンテストでは魔法をより意識した方がいいかもしれません。実際には、日本においても魔法的なほうが好まれます。「ひっかかった」「わからなかった」と「魔法だった」でどちらが印象的でしょうか。

もっとも、魔法的であるためにも不思議は必要です。そして、競技においては不思議なほど良いです。一般的に見て不思議というレベルは、競技ではヌルいものになります。マジックの要件としてはそれで十分ですが、加点要素にはなりません。可能なら審査員をひっかけましょう。そのほうが評価が高くなる傾向があります。

不思議には「わからない」と「ありえない」がありますが、これらは違います。「わからない」はメソッドの見当がつかない状態であり、「ありえない」はメソッドの存在不能を言うものです。もちろん「ありえない」の方が上です。合理的手法が存在しないときに魔法しかないということになります。非魔法の否定による魔法の肯定です。この否定の否定が、魔法性へのアプローチのひとつです。

その二重否定を単純肯定にできないでしょうか。それがもうひとつのアプローチです。

我々はカテゴリを直観的に判定するシステムを持っています。プロトタイプ理論です。たとえば、パネルを見せて鳥か否かを答えさせるテストをすると、スズメやカラスより、ダチョウやペンギンの方が反応が遅くなります。前者は鳥のプロトタイプ(原型)に近い形態なので直観でわかりますが、後者はプロトタイプでは判定できず、知識で対応することになるので判断に時間がかかります。魔法にもプロトタイプがあります。あるいは、おそらくアーキタイプ(元型)のようなものもあります。マジックをそこに近づけると「魔法である」という印象になるわけです。Magic Atmosphere の美しい、ある意味では本来的な達成になります。

映画やアニメの魔法が、なぜ魔法として瞬時に受容されるのか。ひとつには、魔法のアーキタイプやプロトタイプを利用しているからでしょう。そして、それらの魔法の映像表現が、再帰的に魔法のプロトタイプを作ります。

魔法のプロトタイプはマジシャンにもっと意識されて然るべきものでしょう。マジシャンは魔法の虚構を見せる役者です。

 

採点方式

採点方式には大きく2つあります。項目ごとに採点して項目点の合計を最終点とする方式と、いくつかの観点から全体を総合的に評価して採点する方式です。これらを項目点式と全体論式と呼ぶことにします。FISMは後者です。

私自身はもともと項目点派でしたが、いまは全体論派です。マジックの良さが要素の単純な足し算になるとは思えません。すでに見たように、乗算的な要素もあれば、要素間のシナジーやアナジーもありますし、要素が統合される際の創発もあります。また、要素のウェイトは、マニピュレーションとメンタリズムで、もっというと各アクトごとにも違ってくるでしょう。

認知的な限界もあります。我々が経験するのは統合後の全体です。それが何で構成されているのかはあまりわかりません。おいしいカレーの隠し味を当てるテレビ企画で、どの専門家も正答できませんでした(答えは砂糖でした)。何が貢献しているのかわからないまま、おいしいことだけわかるのです。だから隠し味になります。

印象の理由を求められたとき、我々はしばしば無意識に理由をでっちあげることが知られています。項目点式でもでっちあげが起こります。わかりやすい例は、さほど不思議ではない名演に対する不思議点のかさ上げです。仕方がないところもあります。そこを低くすると総合点が低くなってしまいます。秀でたものが秀でた点にならないのは、ルール上は正しいのかもしれませんが、評価として正しくない気がします。その不協和を解消するため、そのアクトは不思議だったことになります。技術点でもそれは起こりますが、それに関しては、優れた芸であるなら技術があるという見方も可能です。しかし、なんにせよ、アクトの印象を項目点に振り分けるなら、最初から全体論でいいわけです。

項目点式のメリットは説得力でしょう。客観性や再現性があるように思えます。なので私も項目点派でした。全体論には説得力がありません。80点の根拠が「総合的に判断して」では納得感がありません。ただの主観ではないかと。実際、全体論式は多分に主観です。客観性や再現性を放棄しているようにすら感じられます。それでいいのでしょうか。どうやらよさそうだというのが私の見解です。

私の経験上、全体論式のほうが不思議と再現性が高い、つまり、採点のブレが少なくなっています。というか、項目点式が思いのほかブレます。それだけ項目点を付けるのは難しいということでしょう。カレーを食べたとき、おいしさ点はすぐ付けられても、スパイス点とか具材点とかライス点とかを聞かれると困惑するのではないでしょうか。部分の評価は考え方によっても変わります。でもおいしさは考え方ではありません。そして、考え方より感じ方の方が実はそろいやすいのです。

「客観的に」と言うとき、多くの場合、それは間主観的なものです。同意が成立する主観ということです。例えば美人というのは間主観的なもので、主観のコンセンサスで決まります。良いマジックも間主観的なものです。そもそもマジックは客観的には存在しません。マジックは観客の脳内で起こるものと言われる通り、主観的経験を作るのがマジックです。そして、観客が一様に錯覚し、良いイリュージョンを見るのが良いマジックです。そう考えると、一定レベル以上のマジックにおいて、主観的評価がそろうのは不思議ではないのかもしれません。

実は再現性が高いというのがわかって私は全体論派になりました。あとは速く採点できるというメリットもあります。悩まなければ数秒でできます。そして、アクトの美点を尊重した評価ができるのも良いところでしょう。観客を魅了する何かがあるとき、それがどの項目に属するものであれ、そこには大きな価値があるのです。

国内大会は丸いものが勝ち、国際大会は尖ったものが勝つとも言われることがありますが、それは採点方式の違いによる場合もあります。もっとも、ほとんどの場合はレベル差です。国内大会であればすごくうまければ勝てます。でも、国際大会はすごくうまい人が出るので、それだけでは勝てません。プラスアルファが求められます。これは、丸の上のエッジであり、ウィークポイントに寛容というわけではありません。国際大会で勝つアクトは国内大会でも採点方式によらず勝つ(圧勝)でしょう。

ところで、全体論式の観点は何のためにあるのでしょうか。観点のスコアを飛び越えて総合点が付きます。観点が定められていなくても点数が変わらなそうです。実際にそうかもしれません。観点は観る点です。フレームの設定と言ってもいいでしょう。フレーミングで印象が変わりうるのでそこの統一です。とはいえ、特別な見方が要求されるわけではなく、だいたいは順当なフレームが確認されるだけなので、それで見方が大きく変わることはありません。また、観点の間にはかなりの重複や冗長性がある(多くはエンタメ性で回収できる)ので、観点のリストが多少違っても大枠はほとんど変わりません。なので、よほど特殊な観点が設定されない限り、その有無や違いによる影響はあまりないでしょう。ただ、観点がいかに順当なものだとしても、順当であることを明確にしておくのは重要です。

観点の確認は、排除されるべき価値基準の確認でもあります。例えば、プロフィールやルッキズムが審査に影響することはルール上ないといったことがわかります。実際、定められてない基準が持ち込まれることがあってはなりません。審査員にはその徹底が求められます。そういう管理ができる人が審査員をすべきです。

では、審査に要求される資質を見ていきましょう。

 

審査員の適性

フェアさ

コンテストにフェアさは欠かせません。フェアではないコンテストは出来レースです。ルールをあからさまに無視する意図的な優遇や冷遇はほとんどありませんが、無意識の先入観や偏見が入ることは割とあるでしょう。先入観や偏見を全く持たない人もいませんが、それが少ないこと、そして、それが正しくないとわかっていることが重要です。

専門知識

専門的な卓越性を評価しなければならないので、専門知識は当然必要になります。

眼力

解像度と判定精度です。解像度がないと細部が見えません。神は細部に宿ります。それが見える視力が求められます。そして、細かく見えたとして、それらの良し悪しを見極める目も求められます。正しさが感覚的にわかるのかということです。

感性

エンタメ性や芸術性を評価するには、それらに対する適切な感受性がなければなりません。

パラレル視

マジックには表と裏があります。一般客が見るのは表ですが、マジシャンには裏も見えてきます。それはかまわないのですが、それで表が見えなくなってはなりません。マジックを評価するには表と裏を同時に見る必要があります。難しい場合、表に集中できたほうがいいです。

教養

すべてのマジックは何かしらの知識を前提にしています。不思議は自然に対する常識が前提になっていますし、テーマによる意味付けや趣向は社会常識が前提になっています。それらがないとマジックはビックリ箱にしかなりません。ある方面に暗いと、そこにかかるテーマが十分理解できません。審査員には幅広い知識が期待されます。高度な知識ではなく、常識的な知識でいいのですが、あらゆる常識をカバーするのはなかなか大変(まあ無理よね)です。

ひっかかりにくさ

ディセプティブさ30でノックアウトされたら、40と80の違いがわかりません。そこを測るにはかなりの耐性が必要です。しかしながら、ひっかからなかったもののグラデーションを見るのも実際には難しく、そこが白黒判定になるなら標準的なひっかかりやすさのほうがいいかもしれません。

一般の感覚

審査員には一般以上の感覚が求められるわけですが、一般的にはどう感じられるのかもわかっていなければなりません。その縦軸とは別に、横軸の一般もあります。個人の趣味を押し付けないということです。辛いのが大好きだからと言って、激辛カレーを優遇してはなりません。審査は主観になるとは言いましたが、これは好き嫌いで採点するという意味ではありません。我(が)と交わる前の質を見極めなければなりません。間主観的主観ということです。

国際感覚

間主観はインターサブジェクティブで、ネイションレベルでのそれがインターナショナルになります。したがって国際感覚は海外風の感覚ではなく、国境なき感覚です。当然、国際大会とリンクする大会ではそれが重視されます。もっとも、場所に依存しない普遍性はそれ自体が価値の高いものです。

以上の資質を兼ね備えている人が審査員として理想ですが、これは理想論です。そんな人はいません。いるなら審査員はその人だけでいいでしょう。それができないので複数人で審査します。三人寄れば文殊の知恵で、数でスコアは適正化されます。ジャッジミーティングでエラーは修正されます。もちろん、それでも間違いは起こります。採点競技の宿命でしょう。

 

最後に

書いているうちにだいぶ長くなってしまいました。これでもだいぶ削りました。

必勝法はないと言いましたが、必負法のようなものはあります。よくある悪い例をいくつか書いていましたが、否定的なトーンが強くなりすぎるので今回はカットしました。

なお、これはどこかの公式見解ではなく、私の現時点での個人的見解です。偏った見方もあるかと思います。同意していただく必要はありません。これによって別の見解が明確になるのなら、それは喜ばしいことです。とりあえずコンテストにかかわる方、かかわろうとする方にとって何かしらの参考になれば幸いです。

 

ポン太 the スミス

ストロングマジック

今こそ読まれるべき名著

マジックで見せ方が重要になるのはおおよそ自明と言えますが、その重要性とは裏腹にその議論はずっと軽視されてきました。ひとつには、マジックそれ自体が強いというのがあるでしょう。見せ方に多少の難があっても不思議が起こればそれなりにウケます。不思議のインパクトだけである程度押し切れたわけです。それが難しくなりつつある(あるいはすでになっている)ように思います。テクノロジーの発展と情報化です。「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」と言われるとおり、科学技術には魔法を現実に近づける、もっと言うと魔法を陳腐化する側面があります。技術が発展し、不思議なものが身の回りに増えていくなかで、不思議への感度は弱まっていかざるをえません。そこに情報化の波があります。マジックが秘技であったころ、その技術を知る者ないしそのデモンストレーションは特別でした。そのアドバンテージがもうありません。いまではマジックのタネがインターネット上のそこらじゅうにころがっています。タネ自体が広まらなくても、タネにすぐアクセス可能であるという認識が広まることで、トリックの価値が下がります。

だからといってマジックにおける不思議の重要性が下がるわけではありません。マジックである限り不思議でなければなりません。それはこの本でも強調されています。不思議でなければ、それはマジックではありません。マジックにとって不思議は必要条件です。ただ、それがもはや十分条件にはならないということです。不思議はジャンルを成立させるものであり、その上でエンターテインメントを成立させなければなりません。

映画と似た運命をたどるのではないかと私は思っています。奇しくも映画の創成期に活躍したのはひとりのマジシャンでした。世界初の映画監督とも言われるマジシャンのジョルジュ・メリエスは、さまざまな映像技術を開発し、その効果を見せることで人々を驚かせました。しかし、そのすごさで魅了し続けることはできません。すごいものすごくなくなるのです。ご存知のとおり、映画は映像技術のデモンストレーションではなく、それを用いて物語を表現するものになっていきました。

マジックももっと表現的になる必要があるでしょう。マジシャンは表現者でならなければなりません。では、表現としてのマジックには何が必要なのでしょうか? 表現者としてのマジシャンには何が求められるのでしょうか? それがこの本に載っています。

「この本はマジシャンから理論書と呼ばれるだろう。しかし、私はそう考えない。これは技術書だ」

ストロング・マジックのはじめにダーウィンはそう書いています。確かに、われわれはよくスライトのことを技術と言い、それ以外のことを理論と言いがちです。しかし、スライト以外にも技術はあります。そもそも技術と理論という区分がナンセンスです。たとえば、クラシックパスにもセオリーはあるわけで、つまり、さまざまな技術のそれぞれに理論と実践があるわけです。この本では、プレゼンテーションの技術を解説しています。理論的な話もありますが、実践的な助言や提案が主体になっています。

「ようやく開かれた議論が誕生した」とジョン・カーニーはこの本を称賛しました。それまで、どちらかというと主観的、感覚的に語られてきたプレゼンテーションの分野が、この本では客観的な事実に基づいて論理的に考察されています。この領域が論理的に議論可能であることを示した点で、この本には大きな価値があるのです。この本を読めば、ダーウィンの主張に同意するか、またはしないかになるわけですが、いずれにせよマジックの見せ方についての洞察が嫌でも深まります。非常に考えされられる内容です。タマリッツも「考えさせることで成長させる本」だと言っています。何についても言えることですが、答えを得ることよりも考えることのほうが重要です。

映像資料に溢れるいま、マジックの本は考えるためにあると言ってもいいでしょう。読書は映像視聴よりも論理的思考を伴うものです。話し言葉では聞き流してしまう不整合も書き言葉では見えてきます。読むのを止めて考えたり、戻って読み直したりもしやすい。本は思考に適した媒体ということです。

この本は書くエクササイズも求めます。考察には書くことも重要です。われわれはなぜか書かなくても考えられると思っています。でも、たとえば、47×69ぐらいの計算でも書かないと考えにくいわけです。われわれが抱える諸問題はそれより単純なのでしょうか。ある程度入り組んだ問題を解くには書いたほうがいいのです。

「選択の結果があなたのアクトだ」

マジックの演技には無数の選択があります。最終的にあなたがすべてを決定しなければなりません。もちろん、いままでも選択はなされてきたわけです。でもそれはどれぐらい意識的なものだったでしょうか。利用しやすいものを安易に採用しているだけにはなっていないでしょうか。この本では、たくさんの場面に選択があり、そのそれぞれにたくさんの選択肢があることを指摘し、そしてひとつひとつの選択の基準を示します。良い選択を重ねることでのみ良い方向に進めます。

とりあえずの良い選択はこの本を読むことです。
 
 
ポン太 the スミス

確率と不思議さ

マジックでは現象のあり得なさとして起こる確率の低さを言うことがあります。「1/nの奇跡」、nが大きいほど不思議だというわけです。では体感の不思議さはnに比例するのでしょうか。

コイントスの予言を考えましょう。予言を述べ、コインを投げさせます。それが1回的中しても不思議ではありません。1/2の偶然です。繰り返すことで不思議になっていきます。しかし、不思議さが倍々で増え続けて無限大に発散するということはないでしょう。5,6回ぐらいすれば、それ以上繰り返しても不思議さはあまり上がらないように思います。

私の感覚では、事象が起こる確率をpとすると、不思議度はだいたい(0.5-p)×200ぐらいです。コイントスの予言の場合、この値は反復に応じて0, 50, 75, 88, 94, 97, 98, 99, 100となります。偶然ではないと感じられれば不思議が成立するので、必然を確信できる以上の試行が過剰に感じられるわけです。

必然性はコンテクストによっても示唆されます。例えば、マジックショーの演目で、100万円が入った箱と空箱を用意して好きな方を選ばせてプレゼントする場合(あるいはもっと極端に、生死がかかっているような場合)、演者の必勝性が暗黙に想定されます。そのとき、デモンストレーションは1回で十分で、50%を100%制御する不思議になります。

ここまでの議論は、プロセスのクリーンさやフェアさを考慮していません。しかし、実際のところ、マジックで問題になるのはむしろそっちです。マジックにおける不可能性というのは、確率的なありえなさ(インプロバビリティ)ではなく、トリック的な実現性のなさです。ジョン・ハーマンの「100万分の1の偶然」は極めてインプロバブルですが実現不能には見えません。インプロバビリティ≠インポシビリティなのです。マジックはインポッシブルでなければなりません。

また、体感的な確率と数学的な確率は違うということにも注意が必要です。観客は確率をロジカルに計算をしながらマジックを観賞するわけではなく、もっと感覚的に反応します。ACAANとCAANはどちらも52分の1の事象ですが、多くの人にとってACAANの方が起こりにくいように感じられます(そして、ACAANのほうが(プロセスにもよりますが)コントロール不能に見えます)。

結局、確率自体はマジックにとってさほど重要ではありません。大傑作と言われるBウェイブは4分の1を示しているだけです。しかし、示す過程で、必然性や不可能性を強調し、インパクトを高めています。イロジカルな反応を誘発しているところもあるように思います。

マジックの不思議はさまざまな要素が複雑に絡み合うものです。確率的な現象の不思議さは、実は確率以外でおおむね決まるのです。

 

ポン太 the スミス

マジックはマイナーでよいのか

私はマジックがもっとメジャーになることを望んでいます。しかし、マジックはマイナーでよいという意見も昔から人気です。マイナーな利点は確かにあり、それはまた魅力的だとも思います。でもマイナーゆえのマイナスはもっと大きいと私は思うのです。また、「情報化」によってマイナーのメリットも薄れつつあるように見えます。

マジックがマイナーだと良いのは、やりやすさです。マジックを知らない相手のほうがやりやすくなります。マジックのタネを知らないのはもちろん、マジック自体見たことがない、という観客からリアクションを得るのは比較的容易です。マジックがマイナーであるほうが、そういう相手に当たりやすくなるでしょう。マジックがメジャーになると、その点で難しくなります。マジックを見慣れた人、やっている人にウケるのは大変です。

マジックは情報の非対称性に依存しているので情報が広まると成立しなくなる、という主張を見かけることがありますが、マジックはそこまで観客の無知に依存しきっているわけでありません。確かに知ることで破綻するものもありますが、知ってなお不思議に見えるものあります。また、ある原理を知っていることと、その原理が使われていると気づくことは別で、原理が巧妙に使われた場合、それは専門家でも見抜けません。

マジックをする人が増えるとマジックを見る人が減る、と言われたりもしますが、これも正しくありません。マジシャンはマジック番組を見ますし、マジックの動画を探しますし、ラスベガスに行けばカッパーフィールドのショーに行きますし、いろんなマジックバーに行ったこともあります。マジックをする人の方が、はるかにマジックを見る傾向があります。マジックをする人が増えると、マジックを見る人が増えるのです。

そして、良いマジックはマジシャンにウケます。マジックコンベンションの観客はほぼマジシャンです。それでも良い演技はウケます。良い必要はあります。普通のことではウケません。これが、マジックが広まるとツラいところです。ハードルが上がります。でもこれはマジックに限った話ではありません。あらゆるジャンルのものにその構図があります。平凡な料理で食通を満足させることはできません。しかし、だからと言って料理人が味音痴の客を望むなら、もうプロとして終わっています。

マジックはあまりに安易に演じられてきました。もっと他の芸事の基準に近づいても良いはずです。そうなると、演じないという選択が増えるかもしれません。でも、マジックが好きなら演じる以外にも喜びはあるでしょう。良いマジックに触れたいなら、マジックがメジャーになった方が良いのです。マジックがマイナーすぎるせいで、良いマジシャンが日本に来られず、良い本が翻訳されません。マジック人口が数倍になれば状況はかなり変わるでしょう。

そして、マジックはどのみちマイナーです。日本のマジック人口は3万人などと言われていますが、それが30万人になったとしてどうだというのでしょう。99%以上の人は結局マジックをしません。マイナーな範囲でのメジャー化は、ほとんんどメリットしかないように思います。

秘密を広めたくないと言っても、もはやほとんんど避けられないのが現状です。マジックのタネはYouTubeで垂れ流しになっています。その現実を前にして、マジシャンの数を少なく保って秘密の守ろうというのはナンセンスでしょう。逆に、マジシャンが増えたほうが、守れるところが大きくなる気もします。

マジック以外の要因でも、マジックはだんだん難しくなっていきます。1000年前にタイムスリップすれば、単純なトリックでも驚くほど驚かれるでしょう。でも、スマホを見せれば、もっと驚かれるはずです。「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」という言葉がありますが、技術は日々進歩して魔法に近づきます。それが当たり前になっている現代人にとって、マジックによるささやかな不思議はさほど衝撃的ではありません。そして、いろいろ視聴しやすい環境にもなり、衝撃映像が日常的に見られます。衝撃的なことを見てもあまり衝撃がありません。奇跡と驚きハードルは今後も上がり続けます。

マジックがすばらしいものであり続けるには、芸としてアートとして成長していく必要があるでしょう。マイナーで細々やっていてはなかなかそれが望めません。マジックがもっとメジャーになり、良い具合に活性化することを願うばかりです。

 

ポン太 the スミス

ビーナチュラル

バーノンが言ったビーナチュラルは、おそらく最もよく知られたマジックのスローガンでしょう。しかし、マジックは超自然現象、つまり自然に反することを見せるものです。であれば、なぜ自然でなければならないのでしょうか。それはフィクションだからです。不自然なプロセスはフィクションを壊します。不自然なやり方でコインが消えたら、魔法が原因だと感じられず、不自然な行為が原因ということになってしまいます。

そして、自然であれと叫ばれる背景には、不自然なやり方が目立つという状況があります。自然とは、不自然ではないことです。ビーナチュラルは不自然なことをすな! と言い換えられます。

不自然なこととはなんでしょうか。自然はロスを嫌い、人間もロスは好みません。余計な物、余計な経路、余計な力、余計な時間、余計な苦労などは不自然です。大阪から東京へ行くのに北海道を経由するのは不自然ですし、カップラーメンを作るのに30分かかるのは不自然です。そういうことがマジックではよくあります。当然「何かあるはずだ」となります。匂うわけです。クサいことをして、現象が起こっても、不思議にはなりません。「何をやったかはわからないけど何かやったのはわかる」は一般的にはバレていると言います。

もちろん、裏で何かをやらなければマジックの現象は起こりません。なのでそこを自然に行わなければならないのですが、ここで言う自然とは表から見たときのことです。裏の行為を無駄なくやるというわけではなく、むしろ裏側でどれだけ無駄が生じても、表向き無駄がないように見えなければなりません。そこにマジックにおけるビーナチュラルの難しさがあります。マジックには二重性があり、表の世界と裏の世界が乖離しています。乖離を作るのがマジックです。表向き自然になるように裏の仕事を達成するのは技術的に難しいことであり、また裏情報を干渉させずに乖離された表側を客観的に見極めるのは心理的にも容易ではありません。

さて、ダイ・バーノンのビーナチュラルという言葉には、ビーユアセルフという説明が加えられています。私が思うに、これはかなり要注意です。

あるマジシャンの指導をしているときのこと、彼の動きがどうも不自然で、どうしたものかと思っていました。休憩中、彼に「ちょっとそれを取って」とテーブルに置いている物を取ってもらったのですが、その彼の所作がなんとも不自然ではありませんか。私は思わず「わかった。あなた自身が不自然だわ」と言ってしまいました。ビーユアセルフが自然とは限りません。ナチュラルに不自然な動きの人もいます。

また、スライディーニについて、彼は演技スタイルは彼の普段のスタイルとはまるで違ったとジーン・マツウラさんから聞いたことがあります。当たり前と言えば当たり前ですが、演者としてのあなたの所作が、素のあなたの所作と同じである必要はありません。もちろん、違った場合、普段のあなたを知る人からはその違いが不自然に映るかもしれませんが、マジシャンが役者であるのなら、知人から不自然に見えることもまた自然です。そして、スライディーニは演技中、素の自分より不自然に動いていましたが、それは彼の演者としてのペルソナには自然なものでした。

何が自然なのかは文脈やフレームで変わります。物が浮くのは、地上では不自然ですが、スペースシャトルの中では自然です。

原則としては無駄の少ない動きのほうが自然になりますが、基本的に無駄の多い動きの人が、技法のときだけ無駄なく動くと不自然です。際立ちます。野球中継を消すと居眠りしていた親父が起きる現象がありますが、音が止むのは目立つのです。トーンを統一しなければなりません。

『KATA』でお馴染みのダフェダスBさんが言っていました。「すべての動きを不自然に行ったとき、不自然な部分はなくなる」。もちろん、全体が不自然なのは良いのかという話になりますが。

もっとも、人間はある程度不自然です。いくらかは無駄な動きをするものであり、全く無駄がないのも逆に不自然です。体脂肪のように、自然な量があります。少なすぎると痩せすぎで、多すぎると太りすぎになります。ただ、ほとんどの問題は肥満なので、ダイエットが重要です。あえて太いスタイルというのもあり得ますが、それは自覚的で選択的なものでなければなりません。

なんであれ自覚的でなければなりません。自分の不自然さを知り、それを調整するか、あるいはムーブをそこにアジャストする必要があります。

 

ポン太 the スミス

間の魔法

間(ま)が大事だというのは、マジックに限らず、あらゆる分野のプレゼンテーションで言われることです。プレゼンの上手と下手を分けるのが間と言っても過言ではないでしょう。マジックの場合、間の取り方で秘密に意識が向いたり向かなかったりするので、一層気を付ける必要があります。

間は、事前の間と事後の間に分けられます。

事前の間というのは要するに現象前の間です。マイク・スキナーがその間を強調していたとジョン・カーニーから聞きました。awkward pause とスキナーは表現していたそうです。会話中などでの気まずい沈黙を指す言葉です。何もない空白の時間が発生すると、人は入力を欲します。そのタイミングで情報を出せば食いついてもらえます。刺激に対する感度が上がるわけです。焦らしとも言えるでしょう。逆に間を十分に取らず、空白が整わない段階で刺激を与えても、鈍い反応にしかなりません。ひどいときには「ごめん、よく見ていなかった、もう1回やって」となりますが、そういうケースも案外少なくありません。何もしないのが気まずいので、すぐにやってしまうのですが、その気まずさこそが大事にすべきモーメントだということです。

事後の間は、appreciationとジョン・カーニーが言っていました。認識を深める時間です。情報の処理には深浅があります。間を置くと処理は深まり、間をおかないと処理は浅くなります。例えば「彼女は指輪を海に投げた」という文章を見たとき、まず字義どおりの情景を理解し、その後に、その背景の解釈へと処理が進みます。文章をここで切らずに、「彼女は指輪を海に投げたが、飛んでいたカモメがそれを食べ……」と続けると、処理が情景の理解から背景の解釈へは進まずに次の情報の処理に移ります。マジックではそのように浅く処理させたほうが好都合な場合もあります。例えば、フォールストランスファーは消失後に反対の手が疑われるという問題がありますが、消したボールをすぐにカップから出現させれば、消えた原因に観客の意識が及びません。ポール・ダニエルズのチョップカップルーティンはそのような連続で構成されています。一方、ガイ・ホリングワースはボールの消失を深く印象付けるために、完全消失にしてゆっくり間を取っていました。どちらが良いかは好みなのですが、重要なのはそれに合った間を選ぶ必要があるということです。間を逆にするとどちらも機能しません。

間の長さ関しては、テンポ全体がそうなのですが、遅いと感じるぐらいがたぶんちょうどです。英語ネイティブと英語学習者のあいだで英語の処理速度に差があることは誰もが理解していますが、マジシャンと非マジシャンのあいだでマジック(現象)の処理速度に同様の格差があることを我々は忘れがちです。特に自分がやりこんでいるマジックの処理は高速化されています。自分が見て心地よい間やテンポでやってしまうと、現象の処理が追いつかないことになってしまいます。なにをやっているのか分からないと観客に思わせてしまうのもよくある失敗です。

間の最適化だけで、印象は一変します。ご研究ください。

トゥーパーフェクトセオリー

傷がないから完璧であるはずなのに、マジックでは完璧が傷になりえると言われます。トゥーパーフェクトセオリー。マジックは完璧すぎるとバレやすくなるという説です。

この説には議論がかなりあります。バレやすくなるとしたらそれは完璧すぎるのではなくデザインが良くない、というようなことをタマリッツが言っていたとハビー・ベニテツから聞きました。私も同じ意見です。

不可能性を高めたはずが不思議でなくなることは確かにあります。

ひとつはオルモストパーフェクトです。そもそも完璧という概念に程度はありません。百点満点が完璧であり、そこにレンジはないのです。でも、本当の魔法がない以上、マジックに完璧はありません。完璧は目指すことはできるが到達はできないとダイ・バーノンも言っています。完璧なマジックは存在せず、あるとすれば完璧に近いマジックです。そこには程度があります。完璧にどれだけ近いかですが、完璧に近づいたときに不思議さが落ちる場合があります。完全の一歩手前で不完全性が際立つのです。ミステリーボックスのプロットで、箱の透明化が少し前に流行りました。最終的に6面が透明な箱で達成されましたが、その前の段階で5面が透明なバージョンがありました。1面だけが不透明なのです。怪しさはそこに集中し、実際にそこに仕掛けがありました。これはかなり露骨な例ですが、もっと微妙な形で同じようなことになっているのをよく見かけます。不可能性を部分的に高めるとき、それは可能性の限定になりかねないのです。

もうひとつはトゥーインポッシブルです。完璧には程度がありませんが、不可能にはあります。コインがボトルに入るより、象がボトルに入る方が不可能です。過ぎたるは及ばざるが如しで、不可能性も高ければ高いほど良いとは限りません。あまりに不可能だとマイナスになりえます。観賞における暗黙の枠組みが外れてしまうのです。我々が物を見るとき、知らず知らず前提を設定しています。メンタリズムが不思議なのはサクラではない前提があるからです。カードが当たる程度であればそのフレームは維持されますが、例えば観客の持っている紙幣のシリアルナンバーを言い当てればそのフレームは揺らぎます。フレームが支えられる不可能には限界があり、それを超えたときにリフレームが起こるのです。テレビで東京タワーが消えたら、視聴者の脳には編集の可能性がよぎるかもしれません。目の前に死んだはずの祖母が出てきたら、現実というフレームを疑うでしょう。

どちらの場合も、観客をある答えにたどり着かせる追い込み方と言うことが可能です。もちろんその答えが間違っている場合もあります。でも、間違いが否定できないのなら、観客の体験上、合っているのと差がありません。正解であれ、間違いであれ、観客に答えを出させてはマズいのです。解なし、あるいは思考停止に導くのが理想のデザインになります。

トゥーパーフェクトセオリーは、完璧を理由にしている点でおかしいのですが、完璧に見える方向に落とし穴がありうると知ることは有益です。どの場合OKでどの場合NGかはマジシャンによって見解にばらつきがありますが、良いマジシャンに共通しているのは、この問題に敏感なところです。もっとも、良いマジシャンはだいたいのことに敏感なのですが。ともかく、不可能性はよく考えて最適化する必要があるのは確かです。

 

ポン太 the スミス

理論の必要性

「概念なき直観は盲目である」 ―― エマヌエル・カント

日本ではどうもマジックの理論が軽視されているように思います。それは、私が「理論の必要性」というブログを書く必要性を感じるほどです。

セオリーが万能だと言うつもりはありません。実はむしろあまり頼りにならないものです。トミー・ワンダーも言っていますが、選択が正しいかどうかの判断に、セオリーを使うのはそれこそ正しい選択ではなく、そこは感性で見極めなければなりません。理論上おいしい料理が実際においしいかどうかは、食べて確認する必要があるということです。料理人に味覚のセンスは不可欠です。

センスは、五感に代表されるように感じる能力です。センスがないと結局は間違えます。He love you.と私が平気で間違えるのは、三単現のsのルールを知らないからではなく、そのエラーに違和感がないからです。He you love.とまでは間違えないのは、SVOの知識があるからではなく、その語順に違和感を覚えるからです。それが語学センスです。ネイティブスピーカーは、文法の知識がなくても、感覚を持っているので文法を間違えずに話せます。必要なのは知識ではなくセンスです。

マジックもセンスがないとうまくいきません。まずセンスを養う必要があります。センスを養うにはとにかく良い物を見ることが重要です。良い物を選ぶのもセンスなので、鶏と卵になるのですが……。良い物に触れるうちに、なんとなく「わかる」ようになります。それがセンスです。

次に養ったセンスを磨きます。当然のこととして、明確にわかる範囲の外になんとなくわかる領域があります。感覚的にはわかるけど論理的には説明できないことはたくさんあるはずです。そこを理論によって言語化・論理化して理解を明確にします。で、ここが重要なところなのですが、明確にわかる範囲が広がると、感覚的にわかる領域が広がります。アキレスと亀のように、論理が感覚に追いついたとき感覚はさらに先に行っているのです。

論理か感覚か? などと言われることがありますが、その両輪がそろって前に転がります。センスだけでは限界があり、そこから先に行くためには論理的な分析が不可欠です。そこで理論が役立ちます。

というわけで今後もこのブログでは理論の話をしていくつもりです。

 

ポン太 the スミス

サトルティ

もっとも曖昧に使われているマジック用語がサトルティではないでしょうか。サトルティがよくわからないので、よくわからないものをとりあえずサトルティと呼ぶフシすらある気がします。

サトルティとは暗に示すことだと言われますが、この説明ではどういうコンセプトなのかよくわかりません。もう少し丁寧に説明してみたいと思います。

人間の情報処理には、意識的処理と自動的処理があります。意味は字義通りで、意識して能動的に行う処理と、意図せず受動的に脳が勝手に行う処理です。「見る」の種類についてのブログで書きましたが、視覚情報ではlookとwatchが意識的処理で、seeが自動的処理になります。この自動的処理を経由させての印象付けがサトルティです。

意識的処理は基本的に情報をひとつずつしか扱えません。何かを意識的に処理しているとき、他のものが自動的処理に回されます。したがって、サトルティで入れたい印象は、メイン情報ではなくサブ情報にします。副次的情報で届けるということです。

ラムゼイサトルティやカップスサトルティは、手が空であると主張した場合には成立しません。ペンなどを持ってそれをメインで示したときに、他に何も持っていない印象が入ります。意識的処理では弾かれることが自動的処理では通ります。受けた印象を疑う機能が自動敵処理にはありません。フラシュトレインションカウントも「違う面」をメインで見せるほうが、「同じ面」が成立しやすくなります。

オーラムサトルティは、左手だけではバレバレですが、右手を添えるとバレません。この原理は、「木を見て森を見ず」の逆の「森を見て木を見ず」です。全体を見るとき、部分が意識的に処理されることはありません。目立った部分がない限り、全体的な処理が優先され、部分がサブ情報になります。コインのフォールスターンノーバーも両手同時のほうがディセプティブです。

サトルティ情報は意識をすり抜けて入り、思い込みを作ります。誰に言われたのでもなく、自発的に思ったことには(実際には思わされているのですが)、なかなか懐疑的になれません。サトルティ的な手法はマジック以外でもマーケティングやプロパガンダで使われています。それだけ効くということです。脳にこのような脆弱性があるのは考えてみると恐ろしいことですが、とりあえずこの威力をマジックに使わない手はありません。

 

ポン太 the スミス

オフビート

ブログへの注目が下がってそうなこのタイミングは、オフビートを書くにぴったりでしょう。

ミスディレクションは注意がどこに向くかという話でしたが、注意力には時間的なムラもあります。観客の注意力が落ちているとき、その状態をオフビートと言います。逆に注意されている状態がオンビートです。厳密には、注意に2つの別の状態があるのではなく連続体になっています。

注意力を下げたいとき、高めてから落とすことでガクッと下がります。そのタイミングで技法をすると気付かれません。この原理はスライディーニが重視しており、実際に彼はオフビートの達人でした。スライディーニのペルソナがそれに向いていたというのもあるでしょう。あの独特の動きで場をコントールしていました。ジーン・マツウラによると、普段のスライディーニはあんな仕草ではないそうです。ともかく、張りから緩みが生じます。テンションとリラックスです。

ここで思い出されるのが、桂枝雀の「緊張の緩和理論」です。笑いとは緊張の緩和である、というのが枝雀の主張で、これがオフビートと重なります。実際、オフビートのタイミングで笑いは起こりやすく、また、観客が笑っているときに技法はバレにくくなります。

オフビートにも強弱のレベルがありますが、通常、盲目的な状態にまではなりません。ミスディレクションのブログで述べましたが、非注意性盲目は注意力の高いときに起こります。強いミスディレクションはオンビートです。弱いミスディレクションはオフビートのタイミングでもいけます。

オフビートを使うには、まず刻々と変わる注意の波を把握する必要があります。それに尽きると言ってもいいでしょう。ミスディレクションやオフビートなどの対人スキルは、観客の注意をどれだけ察することができるかです。注意の時間的・空間的な分布がわかるなら、その隙をつくことは、水たまりを避けて歩くぐらい容易になります。

中国武術には、相手の身体の声を聴くというニュアンスの「聴勁」という言葉があります。相手の出方がわかるから、自分の出方がわかるわけです。ダニ・ダオルティスなどを見ると私は聴勁を感じます。マジシャンはもっと聴く意識を持ったほうがいいと思います。オフビートの肝はビートを聴くことです。

 

ポン太 the スミス

ルビ・フェレスの衝撃

TMAコンベンション2019に参加していました。豪華ゲストによる熱演がたっぷり堪能できる、愛好家には本当に至福の時間です。

しかし、私の心をすっかり奪ったのは、1人のコンテスタントでした。ルビ・フェレス、マジック大国スペインから来た20歳のマジシャンです。彼のコンテストアクトはあまりに衝撃的でした。演技が終わった瞬間、誰もが彼の優勝を確信しました。桁違いです。そして結果はやはり当然の1位。

後で審査員の一人と話す機会がありました。「ルビはすばらしいですね」と言うと、「いや、彼の演技は好きじゃない。だから点数をだいぶ低くした。まあそれでも1番高い点にだけど……」。それぐらい抜けていたわけです。

コインマジックに取り組んだとことのあるマジシャンなら、彼のアクトに特にショックを受けるはずです。私がなんとなく想定していた「コインマジックで表現可能な限界」を彼はあっさりと超えました。私が知る限りのマジックでは達成しえないはずの魔法が次々と起こります。圧倒的という言葉では足りないぐらいの現象です。見終わってしばらく放心状態になりました。

さすがスペインで技術的にも抜け目がなく、言葉も音楽も使わずに現象を伝えきる表現力もまた20歳のものではありませんでした。

ルビをよく知るマリオ・ロペスは「彼は数年後すごいことになるよ」と言います。いや、現時点でスゲーよ! ルビの今後の活躍にご注目ください。

 

ポン太 the スミス

イントランジット・アクション

ハビー・ベニテツのコンテンツ『オラ・ハポン!』を扱う上で、イントランジット・アクションは説明しておく必要があると思い、このブログを書きました。

イントランジット・アクションは日本語で言うと「行為中の動作」ぐらいでしょうか。

例えば、グラスを動かしてからテーブルを拭いた場合、その一連の流れはテーブルを拭く行為と見なされます。もちろんグラスを動かす動作も知覚されますが、それはテーブルを拭くのに付随する動作であり、二義的な意味しかないため、処理が浅くなります。論理的思考や批判的思考の対象にはならず、記憶にも残りません。テーブルを拭き終わってから、グラスを動かしたか尋ねても、「それは(意識して)見ていなかった」となるはずです。ごく稀に「グラスは、中央から右に動かし、そのあと左に動かしましたね」というように情報が欠落しない人もいて、そういう人はいわゆるスペイン派のマジックが全く不思議に見えなかったりしますが、まあそれは例外です。

技法をイントランジット・アクション、つまり主たる行為のための副次的動作にすることで疑われにくくなります。同じフォールストランスファーでも、単にコインを渡すより、ペンを取るためにコインを渡すようにしたほうが疑われません。

アスカニオはイントランジット・アクションを非常に重視していました。その原理自体はアスカニオ以前からマジックで使われていましたが、それにこの名前を付けたのがアスカニオです。命名は重要です。名前があるからはっきりと認識できるのです。名前を知った花は道端で目に留まるようになります。ミスディレクションという言葉を知っているから「いまのはミスディレクションだ」とわかります。「どこかに注意が向いていたら他への注意が薄くなるので、いまのはそれを使った」とはなかなかなりません。名前がないと長ったらしく説明的な言い回しになり、それは考察するときにも脳のメモリを圧迫します。だから専門用語があるわけです。イントランジット・アクションという言葉を覚えてください。

アスカニオの弟子であるハビーも、当然イントランジット・アクションを重視しており、『オラ・ハポン!』でもイントランジット・アクションを多用しています。そして、その細やかで巧妙なやり方に私は感動を覚えました。このコンテンツはいろんな見所があるのですが、上質なイントランジットアクションの例が多く見られる点でもおすすめです。

 

ポン太 the スミス

アイディアかぶり

トリックや技法のアイディアが法的に保護されないために侵害されやすいというのはマジックの大きな問題です。一方で、見落とされがちですが、保護の基準がないゆえの過剰リスペクトも私は問題だと思っています。その一例がベンのこのブログです。

もちろんマジックのアイディアにも一定の権利が認められるべきだと私は思っています。でもどのようなアイディアに対し、どのような権利を与えるのが妥当なのでしょうか。それを考える上で、著作権や特許権の仕組みが参考になると思います。

著作権は著作物が作られた段階で、申請の必要がなく自動発生します。申請が受理されてから発生する特許権とは対照的です。権利の効力も違い、著作権が相対的独占権なのに対して、特許権は絶対的独占権です。相対的独占権は、他者が独自に創作したものには及びません。つまりパクりはアウトですが、かぶりはセーフということです。なぜかぶりを良しとしているのかというと、誰がどこでなにを創作しているというのは把握しきれず、偶然のかぶりが許されないのであれば創作できなくなるからです。特許は、カブりもNGの絶対的独占権ですが、厳しく審査されたものが登録され、その情報は一元的に管理されて公開されます。絶対的独占権は容易に取得できないシステムと容易に参照できるシステムが伴っていないとバランスが悪いわけです。

これらのことから考えると、マジックのアイディアで絶対的な権利を主張したり、知らないアイディアとのカブりに対してあまりに神経質になるのは過剰に思えます。

著作権や特許権でもうひとつ重要なポイントは、新規性だけでは権利が認められない点です。新しくても創作性が無ければ、著作物とはみなされません。特許も、新規性以外の要件として進歩性などが求められます。新規性は必要条件であっても十分条件ではないのです。マジックも新規性だけでは不十分でしょう。容易に生成できるバリエーションは誰のものでもないと思います。容易かどうかの判断基準もまた難しい問題ではありますが。

しかし、世の中ほとんどの問題は程度問題であり、判断基準の難しさが伴います。何についても極端な主義に走らず、バランスを考えることが重要だと思います。

 

ポン太 the スミス

「見る」の種類

前回のブログではミスディレクションについて書きました。今回はそれを補足する内容となります。

タイトルにある通り「見る」には種類があり、例えば英語ではsee, look, watchに分かれます。ベンに聞いたところ、中国語でも同様の区別があるらしく、日本語で区別されないのは意外だとのことでした。

言葉を区別しないことは、認識を区別しないことにつながります。実際、日本人は「見る」の差異をほとんど気にしていないように思われます。もちろんそれで日常生活に支障をきたすことはありません。しかし、マジックを分析するにときは「見る」の区別が重要です。

see, look, watchの違いをおさらいしておくと、seeは「見る」というよりも「見える」が近いでしょう。視界に自然と入る感じで、意識的な行為でなく受動的です。能動的・意識的に目を向けて見るのがlookです。そして、さらに集中力が高いのがwatch で、特に動くものについて使われます。

マジックには当然、見せるべきものと見せるべきではないものがあるわけですが、その区別だけでは十分ではなく、見せるべきものについてはどのモードで見せるのかを考える必要があります。例えば、フォールストランスファーを見せる場合、seeが良いのかwatchが良いのかということです。

見るモードによって当然その後の処理も変わってきます。seeは自動的に発生するので、その後も自動的で浅い処理なります。分析的思考を伴わず、記憶に残りません。watchは意識された状態で深く(ときに分析的に)処理されて、記憶にも残ります。

watchさせたいことは、注意を促して行います。seeにしたい場合、ルックアップなどseeになる程度のミスディレクションをかけます。ルックアップとは、手元を見ている状態から観客側へ視線を上げることです。そのとき観客は演者の顔をlookし、その結果として手元がseeになります。

非注意性盲目を起こすには、前回のブログでも述べたとおり強いミスディレクションが必要なのですが、そのとき別の対象を見せるモードはwatchが適しています。

もっとも、これらの議論は単純化しすぎており、実際にはそれほどはっきり場合分けできるわけではありません。しかし、「見る」のバリエーションに注目することで、ミスディレクションをはじめとするマジックのセオリーがいろいろ見えやすくなります。

 

ポン太 the スミス

ミスディレクション

ミスディレクションとはご存知の通り観客の注意を逸らす技術です。

マジシャンのあいだでミスディレクションの重要性は広く認識されていますが、見落とされがちなのはミスディレクションにおける程度の重要性です。

何かに注目しているときに他のことが見えなくなることがあります。この見落としは非注意性盲目とも呼ばれ、バスケットボールのパスを数えていてゴリラの乱入に気づかなくなる「見えないゴリラの実験」が有名です。非注意性盲目を引き起こすのが、強いミスディレクションになります。

注意力のリソースは有限なので、使われすぎると他に割く注意力がなくなり、網膜に写っているのにもかかわらず処理がなされず事実上見えなくなる、という原理です。

奪われる注意がそれほど強くない場合は、注意力が残るので盲目は起こりません。それでも注意力が削がれた分、情報処理レベルは落ちます。運転中に通話すると、盲目にはならなくても判断が鈍るために事故が増えます。このように情報処理のレベルを低下させるために使うのが弱いミスディレクションです。ディバイデッドアテンションという言い方がこの場合わかりやすいと私は思っています。

2つに分けて説明しましたが、実際には2種類あるというよりも、注意をどれだけ奪うかという量的な話であり、あるレベルで盲目が生じるイメージです(対象物のサイズや位置によっても盲目ラインは変わります)。

ミスディレクションは、程度を正しく選ぶことが重要です。盲目性が必要とされる場面で、見えてしまうのはもちろんアウトですし、低レベル処理が求められる場面で見えないのもまた良くありません。

盲目性が目的だからといってミスディレクションが強ければ良いわけでもありません。何かに気づかれないためにミスディレクションを使うわけですが、ミスディレクション自体にも気づかれてはなりません。「注意は逸らされていない」と観客に思ってもらえるよう、ミスディレクションはなるべくサトルに行うべきでしょう。

次のブログでまたミスディレクションに関連するトピックを取り上げます。

 

ポン太 the スミス

サーストン

ハワード・サーストンと言えば日本ではサーストンの3原則が有名です。

■サーストンの3原則

原則1.マジックをする前に現象を言ってはならない。
原則2.同じマジックを繰り返し見せてはならない。
原則3.種明かしをしてはならない。

原則1に関しては、そのマジックの狙いが意外性による驚きである場合、正しいです。しかし、マジックは予想外のビックリだけではなく、何がくるかわかった上で「それはありえない……マジか!」というタイプのものもあります。これはサプライズとサスペンスの違いで、その辺の話はペペ・カロルの『52 Lovers』に詳しく載っていますので、ぜひお読みください。

サスペンスになるものは、現象を事前に言って問題ありません。むしろ、言うべきだという意見もあります。ダニ・ダオルティスもそう主張していました。好きなカードを言ってもってからテーブル上の1枚をめくって当たっていることを示す場合、前もって宣言したほうが不思議だろう、と。問題は達成が難しくなることです。しかし、それは方法論の問題であり、現象面の問題ではありません。現象を言うとハードルが上がります。上げないほうがいいのかというと、そのハードルを越えられるなら上げたほうがいいし越えられないなら上げるべきではない、 と言えると思います。

原則2の理由は、繰り返すと意外性がなくなるし、バレやすくなるのでやめましょうということですが、これも原則1と同じことが言えます。繰り返すことでハードルは上がりますが、達成したときの威力も上がっていきます。1回では軽いエフェクトも反復で厚みを持たせることが可能です。アンビシャスカード、クレイジーマンズハンドカフス、スライディーニシルクなど、リピートによる傑作はたくさんあります。もちろん反復が適しているかはそのトリック次第なのですが、少なくとも最初から除外されるべき選択肢ではありません。

原則2を間違って覚えている方がいらっしゃいまして、それが超絶にクールだったので紹介しておきます。

「同じマジックは二度としてはならない」

原則3については議論が複雑になるのでここではあえて踏み込みません。

サーストンの3原則は初心者へのアドバイスだとも言われます(参考:Speakers:小野坂東 Part6)。確かに初心者には有益かもしれません。しかし、参考動画でトンさんが言うように、その先に進むなら、違う見方も必要だと思います。

サーストンは3原則ばかりが知られていますが、私がサーストンで知ってほしいのは彼の舞台袖での習慣です。

カーテンの陰から観客席を覗いてつぶやきます。

「皆さんショーにお越しくださいましてありがとうござます。I love you, I love you, I love you, …」

彼はいつも観客への愛を復唱してからステージに出ていました。そして彼はいつも観客から愛されていました。

サーストンから最も学ぶべきなのはこの姿勢だと私は思っています。

 

ポン太 the スミス

マジックとは

マジックとは何なのか?

擬似魔法という言い方がコンパクトだし、わかりやすいと思うので、私は気に入っています。

魔法とは超自然的な効果です。疑似は似ているが違うもの。つまり、マジックとは、超自然的な効果に見えるけど、実際には自然法則の枠内で再現されるもの、ということになります(なかったものを再現というのはおかしい気もしますが)。

疑似についての具体的イメージのため、疑似牛肉を考えてみましょう。牛肉の再現を目指した人工肉です。最近かなり本物に似てきました。似ているとは、味あるいは匂い、食感、見た目に牛肉を感じさせる質感があるということです。脳はいろいろな感覚を統合してひとつの知覚を作ります。牛肉の質感と非牛肉の質感があったとき、脳は「牛肉のような何か」を感じます。牛肉の質感が全面的に再現できたときに人工肉は本物の牛肉と感じられます。同様に、魔法の質感の再現度が高いとき、マジックは「魔法だ!」となります。もちろん魔法でないことはわかっています。

わかっていることと感じ方は一致するとは限りません。画像にある2つのテーブルは、天板が完全に同じ形です。その事実を確認し、完全に理解して受け入れててもなお、天板の形は違って感じられます。

魔法が現実には存在しないことはわかりきった事実です。その魔法を現実に体感できるのがマジックの魅力だと思います。

 

ポン太 the スミス

ミゲル・プーガがやってくる!

「日本にはミゲル・プーガを呼びなさい」

心の師匠であるデビッド・ウィリアソンから言われた言葉です。

2011年に中国で、デビッド・ウィリアソンとミゲル・プーガ、マーク・オベロン、私の4人でのショーツアーがありました。40日間で25都市を回るというなかなかハードなものです。

ツアーが始まってすぐ舞台監督が心臓発作で倒れます。急遽ウィリアソンが演者兼監督になり、それから毎日、彼は私に稽古をつけてくれました。私はもともと彼の大ファンだったのですが、ともに過ごすうちに、彼の賢さ、うまさ、センス、人柄にさらに惚れ込んでいくことになります。ツアーが終わるころ、ウィリアソンにぜひ日本に来てくださいと頼み込みました。そこで言われたのが、「ミゲルを呼びなさい」です。

ミゲルはツアーで常に人気者でした。正直に言うと、私にはそれが少し不思議でした。彼はなぜこんなに受けるのか? もしかすると、私がそれをあまり理解していないことを見抜いてウィリアムソンはミゲルを推薦したのかもしれません。「日本のマジシャンにミゲルを見てもらいたい」とウィリアムソンは言っていました。

中国ではミゲルからショーの戦術をいろいろ教わりました。不可能性をそのままに不可能感を高める方法、エレガントではないものにエレガンスを足す方法など。興味深くはありましたが、当時の私には、その印象操作な感じが少しズルいように思われました。しかし、マジックは現実ではなく印象の中にあるものですから、マジック自体がそもそも印象操作とも言えるわけです。

マジックの理解が進めば進むほど、ミゲル・プーガの巧さ、そしてすばらしさがわかるようになりました。彼の作品集『アレグロ』を見た方にはあきらかでしょう。彼はプロ中のプロです。

ミゲル・プーガのワークショップが開催できることをうれしく思います。

 

ポン太 the スミス

ハビー・ベニテツがすごかった

「マジックでもっとも大切なことはなんですか?」

あるマジックコンベンションで、タマリッツがその質問に対してパッションだと答えていました。

アスカニオは極めて論理的にマジックを研究していましたが、一番重要なのはマジックへの愛であることを強調していたそうです。

スペインはやはり情熱の国です。

ハビー・ベニテツもそんなスペインのマインドを大切にしているマジシャンでした。彼はスライト、手順構成、演出の全てに秀でていました。もちろんそれはマジックに対して情熱的に取り組んだ結果でしょう。そしてなんと言っても彼の圧倒的なアクト。それを支えているのもまた溢れる情熱でした。

ハビーのアクトで有名なのはFool Usでも演じた傑作レクエイムです。そのルーティンはアスカニオの生涯を表しており、起こる現象ひとつひとつに強い意味が込められています。それらの意味は決して見てわかるものではないのですが、そこに込めた熱量は観客に届き、それが心を揺さぶります。レクエイムの演技を初めて生で見た私は、他のマジックショーでは味わったことのない種類の感動を覚えました。

ハビーのマジックへの愛情の強さは普段の会話からも感じられました。マジックの質問をすると、彼はいつも真剣に考えてから丁寧に答えてくれます。彼のマジックの分析力がまた半端ではありません。彼の考察の鋭さと深さには驚かされるばかりでした。

3日間、彼と楽しい時間を過ごし、たくさんのマジック談義を通じてさまざまなことを学びました。しかし、マジックへの熱意を吹き込んでもらえたことが、私にとって一番の収穫です。

 

ポン太 the スミス

インポッシブルカンパニーへようこそ!

いろいろあって遅くなってしまいましたが、なんとかようやくオープンできました。

まだまだ商品が少ないですが、これから徐々に充実させていきます。動画コンテンツでは、FISMグランプリのピエリックやカードレジェンドのガイ・ホリングワースなどビッグネームの作品を扱うことになっていますし、日本のすばらしい才能も世界に紹介していける予定です。

「このマジシャンのコンテンツを扱ってほしい」などのリクエストがありましたらぜひお知らせください。

最高のものをご提供できるように頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

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