間の魔法

間(ま)が大事だというのは、マジックに限らず、あらゆる分野のプレゼンテーションで言われることです。プレゼンの上手と下手を分けるのが間と言っても過言ではないでしょう。マジックの場合、間の取り方で秘密に意識が向いたり向かなかったりするので、一層気を付ける必要があります。

間は、事前の間と事後の間に分けられます。

事前の間というのは要するに現象前の間です。マイク・スキナーがその間を強調していたとジョン・カーニーから聞きました。awkward pause とスキナーは表現していたそうです。会話中などでの気まずい沈黙を指す言葉です。何もない空白の時間が発生すると、人は入力を欲します。そのタイミングで情報を出せば食いついてもらえます。刺激に対する感度が上がるわけです。焦らしとも言えるでしょう。逆に間を十分に取らず、空白が整わない段階で刺激を与えても、鈍い反応にしかなりません。ひどいときには「ごめん、よく見ていなかった、もう1回やって」となりますが、そういうケースも案外少なくありません。何もしないのが気まずいので、すぐにやってしまうのですが、その気まずさこそが大事にすべきモーメントだということです。

事後の間は、appreciationとジョン・カーニーが言っていました。認識を深める時間です。情報の処理には深浅があります。間を置くと処理は深まり、間をおかないと処理は浅くなります。例えば「彼女は指輪を海に投げた」という文章を見たとき、まず字義どおりの情景を理解し、その後に、その背景の解釈へと処理が進みます。文章をここで切らずに、「彼女は指輪を海に投げたが、飛んでいたカモメがそれを食べ……」と続けると、処理が情景の理解から背景の解釈へは進まずに次の情報の処理に移ります。マジックではそのように浅く処理させたほうが好都合な場合もあります。例えば、フォールストランスファーは消失後に反対の手が疑われるという問題がありますが、消したボールをすぐにカップから出現させれば、消えた原因に観客の意識が及びません。ポール・ダニエルズのチョップカップルーティンはそのような連続で構成されています。一方、ガイ・ホリングワースはボールの消失を深く印象付けるために、完全消失にしてゆっくり間を取っていました。どちらが良いかは好みなのですが、重要なのはそれに合った間を選ぶ必要があるということです。間を逆にするとどちらも機能しません。

間の長さ関しては、テンポ全体がそうなのですが、遅いと感じるぐらいがたぶんちょうどです。英語ネイティブと英語学習者のあいだで英語の処理速度に差があることは誰もが理解していますが、マジシャンと非マジシャンのあいだでマジック(現象)の処理速度に同様の格差があることを我々は忘れがちです。特に自分がやりこんでいるマジックの処理は高速化されています。自分が見て心地よい間やテンポでやってしまうと、現象の処理が追いつかないことになってしまいます。なにをやっているのか分からないと観客に思わせてしまうのもよくある失敗です。

間の最適化だけで、印象は一変します。ご研究ください。

トゥーパーフェクトセオリー

傷がないから完璧であるはずなのに、マジックでは完璧が傷になりえると言われます。トゥーパーフェクトセオリー。マジックは完璧すぎるとバレやすくなるという説です。

この説には議論がかなりあります。バレやすくなるとしたらそれは完璧すぎるのではなくデザインが良くない、というようなことをタマリッツが言っていたとハビー・ベニテツから聞きました。私も同じ意見です。

不可能性を高めたはずが不思議でなくなることは確かにあります。

ひとつはオルモストパーフェクトです。そもそも完璧という概念に程度はありません。百点満点が完璧であり、そこにレンジはないのです。でも、本当の魔法がない以上、マジックに完璧はありません。完璧は目指すことはできるが到達はできないとダイ・バーノンも言っています。完璧なマジックは存在せず、あるとすれば完璧に近いマジックです。そこには程度があります。完璧にどれだけ近いかですが、完璧に近づいたときに不思議さが落ちる場合があります。完全の一歩手前で不完全性が際立つのです。ミステリーボックスのプロットで、箱の透明化が少し前に流行りました。最終的に6面が透明な箱で達成されましたが、その前の段階で5面が透明なバージョンがありました。1面だけが不透明なのです。怪しさはそこに集中し、実際にそこに仕掛けがありました。これはかなり露骨な例ですが、もっと微妙な形で同じようなことになっているのをよく見かけます。不可能性を部分的に高めるとき、それは可能性の限定になりかねないのです。

もうひとつはトゥーインポッシブルです。完璧には程度がありませんが、不可能にはあります。コインがボトルに入るより、象がボトルに入る方が不可能です。過ぎたるは及ばざるが如しで、不可能性も高ければ高いほど良いとは限りません。あまりに不可能だとマイナスになりえます。観賞における暗黙の枠組みが外れてしまうのです。我々が物を見るとき、知らず知らず前提を設定しています。メンタリズムが不思議なのはサクラではない前提があるからです。カードが当たる程度であればそのフレームは維持されますが、例えば観客の持っている紙幣のシリアルナンバーを言い当てればそのフレームは揺らぎます。フレームが支えられる不可能には限界があり、それを超えたときにリフレームが起こるのです。テレビで東京タワーが消えたら、視聴者の脳には編集の可能性がよぎるかもしれません。目の前に死んだはずの祖母が出てきたら、現実というフレームを疑うでしょう。

どちらの場合も、観客をある答えにたどり着かせる追い込み方と言うことが可能です。もちろんその答えが間違っている場合もあります。でも、間違いが否定できないのなら、観客の体験上、合っているのと差がありません。正解であれ、間違いであれ、観客に答えを出させてはマズいのです。解なし、あるいは思考停止に導くのが理想のデザインになります。

トゥーパーフェクトセオリーは、完璧を理由にしている点でおかしいのですが、完璧に見える方向に落とし穴がありうると知ることは有益です。どの場合OKでどの場合NGかはマジシャンによって見解にばらつきがありますが、良いマジシャンに共通しているのは、この問題に敏感なところです。もっとも、良いマジシャンはだいたいのことに敏感なのですが。ともかく、不可能性はよく考えて最適化する必要があるのは確かです。

 

ポン太 the スミス