理論の必要性

「概念なき直観は盲目である」 ―― エマヌエル・カント

日本ではどうもマジックの理論が軽視されているように思います。それは、私が「理論の必要性」というブログを書く必要性を感じるほどです。

セオリーが万能だと言うつもりはありません。実はむしろあまり頼りにならないものです。トミー・ワンダーも言っていますが、選択が正しいかどうかの判断に、セオリーを使うのはそれこそ正しい選択ではなく、そこは感性で見極めなければなりません。理論上おいしい料理が実際においしいかどうかは、食べて確認する必要があるということです。料理人に味覚のセンスは不可欠です。

センスは、五感に代表されるように感じる能力です。センスがないと結局は間違えます。He love you.と私が平気で間違えるのは、三単現のsのルールを知らないからではなく、そのエラーに違和感がないからです。He you love.とまでは間違えないのは、SVOの知識があるからではなく、その語順に違和感を覚えるからです。それが語学センスです。ネイティブスピーカーは、文法の知識がなくても、感覚を持っているので文法を間違えずに話せます。必要なのは知識ではなくセンスです。

マジックもセンスがないとうまくいきません。まずセンスを養う必要があります。センスを養うにはとにかく良い物を見ることが重要です。良い物を選ぶのもセンスなので、鶏と卵になるのですが……。良い物に触れるうちに、なんとなく「わかる」ようになります。それがセンスです。

次に養ったセンスを磨きます。当然のこととして、明確にわかる範囲の外になんとなくわかる領域があります。感覚的にはわかるけど論理的には説明できないことはたくさんあるはずです。そこを理論によって言語化・論理化して理解を明確にします。で、ここが重要なところなのですが、明確にわかる範囲が広がると、感覚的にわかる領域が広がります。アキレスと亀のように、論理が感覚に追いついたとき感覚はさらに先に行っているのです。

論理か感覚か? などと言われることがありますが、その両輪がそろって前に転がります。センスだけでは限界があり、そこから先に行くためには論理的な分析が不可欠です。そこで理論が役立ちます。

というわけで今後もこのブログでは理論の話をしていくつもりです。

 

ポン太 the スミス

サトルティ

もっとも曖昧に使われているマジック用語がサトルティではないでしょうか。サトルティがよくわからないので、よくわからないものをとりあえずサトルティと呼ぶフシすらある気がします。

サトルティとは暗に示すことだと言われますが、この説明ではどういうコンセプトなのかよくわかりません。もう少し丁寧に説明してみたいと思います。

人間の情報処理には、意識的処理と自動的処理があります。意味は字義通りで、意識して能動的に行う処理と、意図せず受動的に脳が勝手に行う処理です。「見る」の種類についてのブログで書きましたが、視覚情報ではlookとwatchが意識的処理で、seeが自動的処理になります。この自動的処理を経由させての印象付けがサトルティです。

意識的処理は基本的に情報をひとつずつしか扱えません。何かを意識的に処理しているとき、他のものが自動的処理に回されます。したがって、サトルティで入れたい印象は、メイン情報ではなくサブ情報にします。副次的情報で届けるということです。

ラムゼイサトルティやカップスサトルティは、手が空であると主張した場合には成立しません。ペンなどを持ってそれをメインで示したときに、他に何も持っていない印象が入ります。意識的処理では弾かれることが自動的処理では通ります。受けた印象を疑う機能が自動敵処理にはありません。フラシュトレインションカウントも「違う面」をメインで見せるほうが、「同じ面」が成立しやすくなります。

オーラムサトルティは、左手だけではバレバレですが、右手を添えるとバレません。この原理は、「木を見て森を見ず」の逆の「森を見て木を見ず」です。全体を見るとき、部分が意識的に処理されることはありません。目立った部分がない限り、全体的な処理が優先され、部分がサブ情報になります。コインのフォールスターンノーバーも両手同時のほうがディセプティブです。

サトルティ情報は意識をすり抜けて入り、思い込みを作ります。誰に言われたのでもなく、自発的に思ったことには(実際には思わされているのですが)、なかなか懐疑的になれません。サトルティ的な手法はマジック以外でもマーケティングやプロパガンダで使われています。それだけ効くということです。脳にこのような脆弱性があるのは考えてみると恐ろしいことですが、とりあえずこの威力をマジックに使わない手はありません。

 

ポン太 the スミス

オフビート

ブログへの注目が下がってそうなこのタイミングは、オフビートを書くにぴったりでしょう。

ミスディレクションは注意がどこに向くかという話でしたが、注意力には時間的なムラもあります。観客の注意力が落ちているとき、その状態をオフビートと言います。逆に注意されている状態がオンビートです。厳密には、注意に2つの別の状態があるのではなく連続体になっています。

注意力を下げたいとき、高めてから落とすことでガクッと下がります。そのタイミングで技法をすると気付かれません。この原理はスライディーニが重視しており、実際に彼はオフビートの達人でした。スライディーニのペルソナがそれに向いていたというのもあるでしょう。あの独特の動きで場をコントールしていました。ジーン・マツウラによると、普段のスライディーニはあんな仕草ではないそうです。ともかく、張りから緩みが生じます。テンションとリラックスです。

ここで思い出されるのが、桂枝雀の「緊張の緩和理論」です。笑いとは緊張の緩和である、というのが枝雀の主張で、これがオフビートと重なります。実際、オフビートのタイミングで笑いは起こりやすく、また、観客が笑っているときに技法はバレにくくなります。

オフビートにも強弱のレベルがありますが、通常、盲目的な状態にまではなりません。ミスディレクションのブログで述べましたが、非注意性盲目は注意力の高いときに起こります。強いミスディレクションはオンビートです。弱いミスディレクションはオフビートのタイミングでもいけます。

オフビートを使うには、まず刻々と変わる注意の波を把握する必要があります。それに尽きると言ってもいいでしょう。ミスディレクションやオフビートなどの対人スキルは、観客の注意をどれだけ察することができるかです。注意の時間的・空間的な分布がわかるなら、その隙をつくことは、水たまりを避けて歩くぐらい容易になります。

中国武術には、相手の身体の声を聴くというニュアンスの「聴勁」という言葉があります。相手の出方がわかるから、自分の出方がわかるわけです。ダニ・ダオルティスなどを見ると私は聴勁を感じます。マジシャンはもっと聴く意識を持ったほうがいいと思います。オフビートの肝はビートを聴くことです。

 

ポン太 the スミス